他界された方からの贈り物

昨年は、1月2日に佐伯法人会の会長をされていた

野々下盛公氏(元佐伯市議会議員)が逝去されました。



私と同期の市議会議員でもあります。



翌2月には、高校1年生の時に入門した

裏千家茶道名誉教授 佐伯市の茶道の大御所でもある

鎌田宗百先生が他界されました。




更に、12月28日には、

元佐伯市長 佐々木博生先生がお亡くなりになったのです。

私が市議会議員をしていた時の市長です。




昨年は、お世話になった方々のご逝去に始まり、

ご逝去に終わった一年でした。



元佐伯市長 佐々木博生先生の場合は、

もうすぐ退院と言う時に急変して他界されたのです。



12月に入り、mobilephoneで、

hospital入院しているから、時間が有る時にでも来て欲しい。」

驚いた私はすぐに、hospitalに駆け付けました。

すると、私の心配とは裏腹に、

とてもお元気な様子で

ベッドから起きていらっしゃるのです。happy01




「もうすぐ退院できそうだ。」

hospital したお陰で、腰も楽になったんですよ。」

「よかったですね。ホッとしました。

でも、寒いから、hospital でゆっくり療養されては如何ですか?」

など等

米寿のお祝いの時の事も含め、

楽しく過ごさせて頂きました。



まさか、この世にお別れをするなどとは

思いもしていらっしゃらなかった事でしょう。



その証に、

病院からお見舞い返しにと、

【でこぽん】を自ら手配されていたというのです。





亡くなった主人の意思ですからと、

【でこぽん】

を、奥様がお手紙を添えてお送り下さったのでした。

ご自宅の庭にも凸ポンや、レモンなどを植えていらして

私は、毎年、先生自ら収穫された凸ポンやレモンを頂きました。



そして、
「このレモンは、佐々木先生から頂いたものよ。」

と言葉を添えて、おすそ分けをしていていました。



届いたデコポンを頂きながら、

佐々木博生先生の遺徳を偲んでいます。

 

納骨が済みました。


私が15歳の時に入門した
裏千家茶道の先生の納骨が済みました。(;ω;)



茶道だけでなく、42年間何かとお世話になった方です。



鎌田宗百先生は、

淡交会佐伯支部を設立し、県の役員も長年勤められ
裏千家茶道の世界では、有名な方でした。



私は、長年お世話になった感謝の思いで、
毎週、おたんやにお参りさせて頂きました。



初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、

とお参りさせて頂く度に

先生が遠くに逝かれるのを感じ、
寂しさが募ってなりませんでした。


七七日の四十九日の法要が済み、
納骨の為ご自宅を出られた時には、


「先生! これで、本当にお別れですね。

先生が支えて下さって今の私がおります。
本当に、お世話になりました。
どうか、一日も早く天国に辿り着かれます様に。
癌を乗り越えたこの命、少しでも人様のお役にたてるよう
頑張りますので、見ていて下さい。」



と、声をかけました。(ノω・、)



そして、同門の方と、
大きな存在だった先生の思い出を話した後
懐かしい、お稽古場を後にしました。


先生がお亡くなりになった時に作った短歌です。



  癌に病む 我を支えて くれし人

   卒寿で逝きし 茶の師を悼む



鎌田宗百先生のご冥福をお祈りいたします。


初七日のお参り


昨日は、裏千家鎌田宗百先生の初七日でした。


兄弟弟子から連絡があり、rainで、寒い日でした。
お経が上がる時間に一緒にお参りさせて頂きました。


身内以外の初七日にお参りするのは初めてです。
お参りさせて頂いて良いものかどうか・・・。


でも、誘ってもらえて本当に良かったです。


お経が済んで、お茶japaneseteaを頂いた時に


鎌田先生のお孫さんのお嫁さんが、


「お葬式の時に着物を着てらしたかたですよね。」


と確かめる様に聞くのです。



実は、暫くは着物を着ての演奏会もないのでと
先週の木曜日に髪を短くしたばかりでした。


他の人も、「えっsign02 そんなに短かったのsign02



と驚いていました。


そんな、私の髪を結ってくれるのは、
ナント、片手に障害を持っている美容師さんなんですよ。happy01

初めての喪服


私は今まで、他人様の告別式に和装でお参りした事はありません。

昨日の日曜日は、
15歳の時に入門した茶道の先生の告別式でしたので
初めて和装でお参りする事にしました。





20年前の母の葬儀の折、
今回お亡くなりになった先生とご一緒に来られた茶道の関係の方は
皆様和装でお参りして下さいました。



ですから、私も礼儀を尽くさねばと和装にした次第です。




告別式が済んで、お斎も済みほとんどの方がお帰りになりました。

「あと5分ほどで、遺骨とお位牌が、到着します。karaoke

告別式の後、
遺骨とお位牌がお斎の会場に御安置されましたが、
お寺に連れて行かなくてはならないと、
一旦お斎の会場から離れていたのです。

遺族の方々と、数人が残っていましたが、

「先生に会ってから帰りたいわ。」

と先生の到着を待っていました。

改めて、遺骨とお位牌と遺影に向き合った時

思わず、

「先生。他の人がいなくなったから泣いても良いですよね。」

と口から出てしまいました。

こらえていた哀しみが溢れ
涙がとめどなく流れて来ます。sweat02weep

何しろ自分の両親よりも長い年月可愛がって頂いたのですから・・・。

父は私が26歳の時、母は私が38歳の時に他界していますが、
先生とは、42年間の師匠と弟子の関係なのです。

師匠と弟子以上の関係だったかも知れません。



私が、28歳で癌を患った時に

決して、親より先に死んではならない。
親より先に死ぬのは、一番の親不孝なのだから
何が何でも癌に負けてはなりません。

との励ましのお手紙は、癌を乗り越える心の支えの一つになりました。



そして、癌を治した後で、市議会議員選挙に出る時には
後援会長を引き受けて下さいました。


選挙の時に、
私が独身という事で、あらぬ事を噂され、
先生に泣き込んだ事もありました。

「先生sign01私が独身と言うのがそんなに悪い事なんでしょうかsign02crying

どうして、こんな酷い事を言われなきゃいけないんでしょうcrying

助からない病気が治ったから、少しでも人のお役にたちたい

と言うのが悪いんですかsign01crying

子供の様に泣く私の背中をさすりながら、
なだめて下さった事も思い出されます。



決して、親より先に死んではならない。
親より先に死ぬのは、一番の親不孝なのだから
何が何でも癌に負けてはなりません。



と仰った先生は、お嬢さんを子供の時に病気で亡くしています。

更に、数年前には、もう一人を亡くされました。

今改めて、先生の言葉を噛みしめています。

親子は一世。夫婦は二世。師匠と弟子は三世。

死んで終わりじゃない。

来世の為に、年をとっても勉強するのよ。
少しでも、勉強している方が、この次産まれて来る時の為になるからねぇ。

苦に凹む事無く、嫌な事も笑い飛ばし、前向きに生きる。

弟子が失敗してもおおらかに包み込んで下さる。

研究会でお点前をする様になった時には、

「こんな失敗をした時には、こう

あんな失敗をした時には、こう。」

等と、失敗をしてはいけないと緊張させるのではなく、

失敗した時の対処の仕方を弟子に教えて下さるので

却って、緊張しての失敗も少なくて済むのです。

そして、たとえ他のお社中の方が失敗しても、

ジョークで、その場を和ませ、お点前をし易くしてあげるのです。

私が、癌を乗り越えられたのも、
お茶を通しての鎌田宗百先生の薫陶のお蔭と感謝しています。

多くの弟子の中で
一番出来の悪いのが私。
先生に一番心配させたのが私。

そんな私ですが、
鎌田宗百先生に師事出来た事は、本当に幸せな事でした。

鎌田宗百先生のご冥福をお祈りしています。

喜寿を迎えた胃癌の女性

『胃癌で半年。長くても一年は無理です。』


と六年前に病院で宣告された女性が
77歳喜寿のお誕生日を迎える事が出来ましたhappy01heart04



六年前に私の元に来られた時と比べて、
顔色は良く、お肌は艶々し、体重も増えています。


何よりも、体力も付き、目にも力があります。



去年は、10年ぶりに5人目のお孫さんが誕生し、


今までしていた家事の他に
出産された娘さんや、お孫さんの世話を

「疲れを感じないんですよ。」

と言いながら、ニコニコとこなされている姿に感激しました。


この女性の癌も、出来た場所も
2006年7月17日に胃癌の手術を受けられた、
王監督さんと同じだったのです。



最新医療技術で治療されている王監督さんと、


癌=死

と腹をくくり
ひょうたん水を使いこなしながら、
私の癌を乗り越えた体験からのアドバイスを実践したこの方。



・・・


何かと、比較できました。



病院で検査は受けるものの、
手術もせず、薬も飲まずに
喜寿の誕生日を元気で迎えられた事に、
5人目のお孫さんを、その腕に抱く事が出来た事に、



心からの祝福を送るのです。



法人会会長が肺癌でお亡くなりになりました。



同期で市会議員をしていた方が
1月2日にお亡くなりになりました。


佐伯法人会の会長もされていましたので、
何かとお会いする機会も多く、
可愛がっていただいていました。


最後にお目にかかったのは、
昨年の12月2日にお見舞いに行った時です。


その時は、私の育てたひょうたんミカンを

「うまいなぁ」

と食べながら、小一時間お話をしました。



佐伯法人会の状況の事は勿論ですが、


ご自身の病気の事、


平成21年(2009年)4月4日にブログに書いた
http://terumi.hyoutansui.net/blog/2009/04/post-274.php 

癌でお亡くなりになった奥様の事をお話されました。


特に、亡くなった奥様に関しては、高度医療の結果

「血液中にも癌のデーターは出ません。完治しましたよsign01

と医師に言われたにも拘らず再発した事。

治療の事など等、お話になりました。



そして、最後にポツリと


「君は、癌を治したんだよね。

 ひょうたん水って・・・。

 どういう風に使うのかい・・・。」



と言われたのが印象的でした。


何しろ今までは、私の胃癌は誤診だと言って
私の話を否定し続けてきた人でしたから。。。



それでも、


今回の入院は、圧迫骨折での入院で、

肝臓癌の方は、落ち着いているから心配ない。


と仰っていましたし、

お話している間に顔色も良くなりましたので、


お会いしてから、わずか1ヶ月で
お亡くなりになるとは思いもしませんでした。



それだけに、
訃報を聞いて、動揺している自分自身に
自分自身が驚いた位です。




私が癌になった30年前には珍しかった癌も

2009年4月1日には 罹患率が二人に一人

と報道されています。



きっと2012年の今年は
2009年以上の罹患率になる事でしょう。



私と同じ様に癌を乗り越える人が
一人でも増える事を願って止みません。







胃癌で先輩がお亡くなりになりました。

先日、大分大学の先輩がまた一人他界されました。

 

死因は胃癌でした。
齢77歳 喜寿での旅立ちでした。
手術をされて、体調が良くなったとかと伺っていましたので、
早朝のmobilephoneで訃報を聞いた時は、残念で仕方ありませんでした。

 

昭和の繁栄の時代を作って来られた世代の先輩方が、

櫛の歯が欠けるように、一人また一人とこの世を去って行かれます。

世の常とは言うものの、身近な人の弔いは辛いものです。

特に家族となると、その辛さ苦しさもひとしおです。


 

訃報が届いた日の夜、お通夜に先輩と一緒にお参りさせて頂きました。

通夜の席で伺ったのは、

「胃癌で開腹手術をしたけれども、何もしないまま塞いだ。」

「本人には、癌だと教えなかった。」のだそうです。

足掛け2年お会いしていませんでしたので、

私の記憶には、元気なお姿しか残っていませんでした。

 

最後のお別れをした時に見たのは、

痩せて頬がこけてはいたものの、穏やかなお顔でした。

 

私も、手術をし、抗癌剤などの治療を選んでいたら、

もしかすると、そういう姿でこの世を去っていたのかも知れません。

同じ胃癌を患っていらしたので、

尚更の事そういう思いが込み上げて来たのかも知れません。

先輩の逝去にあたり、しみじみと今在る自分が奇跡といえるのだと痛感した次第です。

 

ご冥福をお祈り致します。

人生を表わす様な立派なお葬式でした。


お葬式に参列して来ました。


潮谷寺であったのですが、
境内に大型テントを張りイスが1000脚位用意されていました。
暑くもなく、寒くもないお天気で何よりでした。

お供えのお花も、100基は優に超えていたようです。
境内の中は塀に沿って並べてあり、二列に並べている所もありました。
それでも、並びきれずに、道路まで・・・。
佐伯中の花屋さんのお花がなくなってしまったのではないかしらと思えるほどの数。
(多くて途中で数えるのを止めました。despair

数社経営されていたとはいえ、衆議院副議長から、元市長、元議長に県会議員、年配の男性に女性。若い人。

本当に多くの方が、お別れに来ているのを見て、
この方の人生が、本当に豊かだったのだと思いました。

二度と、お姿を見る事も出来ず、お声も聞く事が出来ないという事は、本当に寂しいです。

生あるものは、必ず滅す

のは、当たり前の事です。


当たり前でありながら、自分自身や自分の大切な人に関しては、考えたくないことですし、

無意識に考えないようにしているのが現実ではないでしょうか。


生れ落ちたその時から、死に向かって生きている。


誰もそれから逃れる事は出来ないし、一日一日が良き方向に進んでいる一日なのか、

悪き方向に進んでいる一日なのか考えて、良き方向に進む一日を生きて行かなくては・・・。

と言う事を再認識した一日でした。

ご冥福をお祈りいたします。

恩のある方がお亡くなりになりました。


とてもお世話になった方がお亡くなりになりました。

入退をされていると聞き及び、お見舞いに伺いたいとご家族の方に申し上げても、

「元来、カッコカマンなので、入院している姿を人に見せたくないんです。

ですから、どなたのお見舞いもお断りしているんです。ごめんなさい。」

と言われ、お見舞いにも伺えずにいました。

バレンタインデーの時も、

「丁度、風邪を引いたので、家にいるよりも病院の方が安心だからと入院したのだ。」と、

ご本人からmobilephoneで聞き、バレンタインデーのpresentも、

ご自宅に伺い、奥様にお渡ししたような事でした。

今年の、お中元は、cherry を差し上げようと、

山形の佐藤錦を予約しています。
お中元のcherry が届いたら、それを、病室に届けようsign01
cherry なら、口に気軽に運べるだろうし、

その時には、絶対お顔を拝見するのsign01

と、私の家族に言っていました。

まさか。そこまで悪くなっていただなんて・・・。
ご存命の時に、改めてお礼を申し述べたかったのに・・・。

悔やまれてなりません。

誰あろうこの方こそが

「市議になったら・・。」

と私に勧め、

逡巡している私の背中を押してくださった方だったのです。

遺体を荼毘にふす為に、自宅から出発し、その方の経営される会社の前を通り、

経営する曳船が着岸している港を通って行かれました。



船の汽笛が、とても悲しく寂しく響き渡りました。

その音を聞くと、自然に涙がこみ上げてきました。

明日は、お葬式に参列させていただき、最後のお別れをしてまいります。

お悔やみに行ってきました。

今朝、お悔やみに行ってきました。

 

自分が考えられる精一杯の事をしても、愛する人が亡くなると

 

ああすれば良かった
こうすれば良かった
ああしなければ、こうならなかったのでは無いか
もし、あの時・・・

等など、悔やまれる想いは募ってくるものです。

 

しかしながら、私の体験から言いましても、
一周忌(むかわれ)・三回忌・七回忌が節目となってその想いを整理していく事ができますし、

また、そうしなければならないと思います。

 

 

残されたご主人は、会社を設立し、社会的立場もお持ちのかたですし、勿論、気丈なかたです。

 

けれども、

 

奥様の最後に至るまでの経緯を私にお話される時には、

たとえ、悲しみなどを、こらえてお話をされていても
奥様の急転直下の体調の変化や、悔しさや、悲しさなどが、伝わってきました。
大柄な体が、心なしか、小さく見えたのは気のせいではなかったと思います。

 

この薬が、この治療法が、癌に効く! 癌が治る!

 

という情報が巷に沢山流れています。

しかしながら、
この方の治療の詳しいお話を伺っていて、

 

この薬が、この治療方法が、癌に効く! 癌が治る!

と言ってはいるけれど、
そんな薬や治療方法が、本当に、この世にあるのかしらsign02

と考えてしまいます。

 

手術もせずに、一服のお薬も飲まずに、余命3ヶ月の癌を克服した

と言う、私自身の体験の事実を信じられなくて当たり前だとも実感した一日でした。

悲しい・・・です。

知人の奥様がお亡くなりになりました。

 

手術をされた後、毎月の免疫療法や高額なお薬を使って

 

『治った!』
『ほぼ、完治したと言っていいでしょう!』

 

と医師から言われていたにも拘らず、

先日お亡くなりになったのです。

 

ご主人は、何とかして治してやりたいと、色々調べて、

『命はお金に買えられない』

という言葉どおり、良いと判断される事は、手を尽くして来られました。
こんなに、奥様のために尽力されるのだろうかと思えるほど
奥様の為に尽くしていらっしゃいました。

 

延命した事は良かった事に違いありません。
けれど、

 

『治った!』
『ほぼ、完治したと言っていいでしょう!』

 

というのなら、何故再発するのでしょうかsign02

診断された事と矛盾しているように思えてなりません。



マーカーの値が高くなったので、スポットの放射線治療をされたそうですが、
スポットの放射線治療をされたかという様にパーッと癌が広がったそうです。

 

1ヶ月半ほど前にお元気な姿を見ていただけに悲しさもひとしおです。

本当に、何時ナンドキ誰が、癌になるか判りません。

 

癌にならない努力をしなければと再認識した悲しい出来事でした。

ご冥福をお祈りいたします。

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