中国を嫌いになってしまいそうです。

日本の国境は明治政府の時に決められ世界でも認められています。

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 政府は1895年、入念な現地調査を重ねて中国(当時は清国)
 の支配が及んでいないことを確認した上で、沖縄県に編入した。
 この時、清国からの異議はなかった。
 1951年調印のサンフランシスコ講和条約でも、
 日本が放棄した領土に含まれなかった。

 

 尖閣諸島は72年の沖縄返還まで米国の施政下に置かれたが、
 中国や台湾はこの時も異議を唱えなかった。
 実際、60年代に中国や台湾で発行された地図にも
 日本の領土として記載されている、と多くの研究者らが指摘している。

 

 ところが、中国や台湾は70年代以降、尖閣諸島の領有権を主張し始めた。
 その頃から、周辺に石油などの海底資源が眠っている可能性が
 取りざたされ始めたためとみられる。
 中国は92年に制定した自国の領海法で中国の領土と明記し、
 台湾は99年に領土として領海の基準線を定めた。

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 国際法上認められている国境を

 なぁーんも悪くない日本を、

 資源力、軍事力、経済力で、

 虐め抜こうとする中国。





 尖閣諸島付近に、

 大量の石油が眠ってるって、

 わかった途端に、

 中国、台湾が無理矢理、

 領有権を主張。


 今回の「中国漁船衝突事件」に
  中国が日本への「レアアース」の「輸出禁止」の措置
 反日デモ・・・

 私が市議会議員をしていた時に
 邯鄲市と友好都市提携をする為の議員団の一人として
 中国に行きました。
 当時、人口5万人程度の佐伯市と、人口800万の邯鄲市が
 友好都市提携を結ぶのは、実際の所、格違いです。

 

 それなのに何故、友好都市の提携を結ぶようになったのか。

 

 それは、かつて揚子江の大水害があった時に
 (今年は1998年の時よりも被害が大きいようですが)

 

 佐伯市の、日中友好協会は、いち早く募金活動を始めた事がありました。
 その時の功績により、中国の領事館を通して
 邯鄲市との友好都市の提携と言うことになったのです。

 

 私が会派を組んでいた方が、日中友好協会の会長をされていました。
 その方は、お若い時に中国で生活していたそうです。、
 その時に、中国の方にとても良くして頂いたと口癖の様に仰っていました。
 中国に対する感謝の念を忘れる事がなく、中国大好きという方でした。

 

 ですから、中国の人々が水害で苦しんでいると聞いて、
 すぐに募金活動を始めたのでした。
 その時、同じ会派でしたので、私も募金活動に参加しました。

 

 真夏の事で、年配の方は体調を崩す方も出る位の暑い中、
 街頭に立って、募金を呼びかけたのでした。

 

 

 ところで、
 友好都市の締結の為に邯鄲市に行った時の思い出は
 本当に良い思い出ばかりです。 

 

 全ての行事が終わり、いよいよ帰国の途につく時
 (送迎の式典があり、その後乗車するのです)

 大柄な、女性の副市長が私を抱きしめ、

 「再見!再見!」

 汽車に乗車した私も

 「再見!再見!」

 と涙を流しながら大きく手を振って別れた事が
 まるで昨日のように鮮明に思い出されます。

 中国との友好都市を夢見て、実現させた渡辺茂廣氏は故人となっても
 邯鄲市との友好関係は20年経った今も続いています。

 中国に対して、良い印象を持っていた私の様な者まで
 中国が嫌いになってしまいそうで残念です。pout

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